サイトをリニューアルをしました。このタイミングで改めて所信表明をここに。

突然ですが、あなたの「究極のコンプレックス」ってなんですか?世の中は「好きなこと」から「天職」と出会うことが大半かもしれませんが、自分探しや適職探しをしている学生さんによく言うのは、ポジよりもネガ。とことん、じぶんの嫌だ、恥ずかしい、情けない、どうやっても上手く出来ない、といった「ネガ=コンプレックス」と向き合ってみることを強くお薦めしています。というのも「グラフィックファシリテーター®」という「天職」と出会ってから早15年。商標を更新した今もなお、描けば描くほど、この仕事が天職だという想いがどんどん強くなる毎日。そう確信する理由は色々あるのですが(自分の父のことだったり、双子の弟のことだったり、前職の経験だったり)、その中でも「この道からもはや逃れられない…」と痛烈に感じてしまう理由に、わたし自身が抱える「2つのコンプレックス」があります。それは色々コンプレックスがある中でも「究極のコンプレックス」。「このおかげでわたしは絵筆を動かさずにはいられないのね…」と諦めの境地にまで至ってしまうほどネガです。

分かりあいたいのに、うまく分かり合えない「ナミダ」のために。

わたしの「究極のコンプレックス」の1つは、絵筆を持たない普段の私は、仕事でもプライベートでも、じぶんの「本当の気持ち」をシンプルに伝えることが、本当に本当に下手くそだと言うこと。まず、文章が長い。このウェブサイトもご覧のとおりダラダラ長い。想いがあふれすぎて、言いたいことがまとまらない。このウェブサイトをリニューアルすると決めてから実は5年もかかってしまったのはそのせい。「長い」「分かりにくい」と言われるたびに、他人から見たら信じられないくらい、いちいち凹んで、伝え方のノウハウ本とか読んでみるけれど、いざ伝えたい気持ちがあふれ出すと感情先行。自分でも途中で何を言いたかったのか分からなくなって毎回迷子。ビジネスの現場では「伝える技術を磨け」と言われているのに、じぶんには致命的といえるくらいその能力が欠落しているという絶望感。打合せもこんな感じなので、毎回時間は長引き、クライアントさまには迷惑かけ通し。メールも長い。チャットも長い。結果、伝えたいことが伝わらない。がんばって(無理に、強がって)短く書いてみれば、誤解で伝わってしまったり。相手に理解してもらえないとナミダが出るくらい傷つくわりに、どうにもこうにも直らない。

伝えるのが下手なら受け取るのも下手。相手の「本当の気持ち」を汲み取ることが本当に苦手です。繊細な人の気持ちが分からないからズケズケ質問して、嫌がられて凹んだり。強がっているだけの人の言葉を言葉のまま受け取って傷ついたり。何も考えてない人を相手に下手に深読みし過ぎて勝手に自滅したり。相手の気持ちを手探りし過ぎて、好きなのに好きと言えず強がってモヤモヤグルグル一人で空回りしているみたいなことがよく起こります。そんなとき、いつも心の奥底で「もう誰か、この私の気持ちを汲み取って~!」と叫んでいました。わたし自身が誰よりもだれかにじぶんの本当の気持ちを汲み取ってほしくて泣いてました。ナミダ。

でも、だから、そんな「ナミダ」まで描きたくてしょうがない。絵筆を持ったわたしは、みんなの「気持ち」を拾いたくてしょうがないんだと思いました。わたしの絵筆は「うまく伝わらない気持ち」を汲み取りたくてしょうがない。「お互い分かりあいたいのに、うまく分かり合えない」議論や組織がほっとけない。会議で「あの人は何を言いたいのか分からない」と言われている人の発言でも、わたしの絵筆は「この人は何を言わんとしているのか」と汲み取りたくてしょうがない。正しく理解するなんてことは無理だけど、理解したい、分かりあいたい。

みんなの「本当に言いたいこと」を理解できる自信がないから、書き留めたい。

普段の打ち合わせで、わたしはみんなの発言を一字一句漏らさず書き留めたくて、わたしのノートは文字だらけ。そのメモを見た人には「あれ?ゆにさん、絵は1つもないですね」と言われますが、会社員として新人で入社した会社で、先輩から取材の時に「語尾まで聴き取れ」と教えられたのが今だに染みついているのもあって、かなり細かく書き留めています。ただその「書き留めずにはいられない」大きな理由は、もう1つの「究極のコンプレックス」から。わたしは一度聞いても理解できない、すぐ忘れてしまう、でもそれだと議論についていけない、その人が「本当に言わんとしていること」を一度聞いただけで理解する自信がない。ただ、これが天職を天職せしめてくれている「究極のコンプレックス」だと気づいたのは親友に言われた一言がキッカケでした。

それまでの私は「メモをとらなくても他の人は、話を理解している。話についていっている。覚えている。凄い。私には出来ない」という劣等感から書き留めていました。一方の親友は、仕事が出来て、大量なメモを取らなくても、問題点の指摘は常に明快、無駄のない完結なメッセージに強さがある、リーダーシップのある憧れの一人。そんな彼女がある日、言った一言に驚きました。「わたしはユニほど他人の発言にそこまで興味は持てない」とのこと。「へ?興味が持てないって、どゆこと?みんなの発言を一字一句聞き漏らさず全部を聞きたいと思ってないの?!ええええ!!!」

冷静に考えれば、皆が皆、そうではないと分かるのですが、わたしの場合は「一字一句でも聞き漏らしたら」皆の議論についていけない。問題を解決できないという小心者の焦りから「すべて」を拾いたい。でも多くは「削ぎ落としていく」聞き方でした。要するに?結論は?と。

「すべて」を描き留めたいと思うのは「誰もがしたい作業ではないらしい」とさらに知ったのは、グラフィックレコーダーとして活動をしている知人たちの描き方と、じぶんの描き方がまったく違うこと、特に量が違うことを知ったときです。じぶんは8時間でも、10時間でも、平気で延々と描き続けてしまうのは、この「究極のコンプレックス」のおかげだったんだと気づかされました。

そして事実、クライアントさんの定例ミーティングに参加すると、前回話し合ったことが繰り返されたりして、前回の議論をすっかり忘れている人の多いこと多いこと。議論が迷走し出した時、過去のメモを振り返ると、あの人のつぶやいた一言がやっぱり今後の方向性を決めてたねといったことが見えてくることもたくさんあるのに、振り返らない人の多いこと多いこと。ようやく今となっては、全部を書き留めたい人間が一人くらい居ても良いのでは、と思えるようになってきました。

「赤鬼社長」の目に「ナミダ」が描けた体験。

と、ここまで長々と「究極のコンプレックス」というネガ最高!という話を書いてきたのですが、これに気づいたのはつい最近のこと。15年前には自覚すらしておらず、飽きっぽい、注意散漫、興味散漫な私が、まさか一つの職業がこんなに続くとは思いもしませんでした。なぜここまで続いてるのか?ここからはポジの話。皆さんにとって「楽しくてたまらない、やめられない仕事」ってどんな「体験」があるからですか?「もう他の職場なんて考えられない!」と言いたくなる会社ってどんな「体験」があるからですか?あなたをワクワクさせている「体験」って何?

わたしの場合は毎回「え?!会議や組織の会話って実はこんなことでうまくいってなかったの?!」と絵巻物から教わる世界にビックリそして安堵と学びと希望の連続で、みんなが笑顔になっていく姿に立ち合うたびに「やめられない」と感じてしまう連続だからなのですが、特に、この活動を始めたばかりの頃、忘れられない出来事があります。それは「社長の目」に思わず「ナミダ」が描けてしまったという体験でした。

その研修に参加したのは全国の支社から集まった50人の部長さん達。研修の場に社長はいません。部長さん方には日頃のモヤモヤを吐き出してもらいました。みなさん、毎週月曜に行われる部長会議で、社長に怒鳴られ細かくつめられているそう。「まるで被告席だよ」「顔を真っ赤にして怒鳴る」「日報を見てはすぐに電話をしてくる社長の指示が細かい」「あれやれこれやれとうるさい」そんな話を聞きながらわたしは社長を「真っ赤な赤鬼のカミナリさま」に見立てて、カミナリ雲から地上にいる部長陣に向かって「アレヤレコレヤレ」と「真っ赤な顔」をして「カミナリ玉」を投げつけている絵を描いていました。部長陣はこれを見て大笑い。「そうそう!まさにこんな感じ!」と指を差して集まってきました。しかし、わたしは次第にその絵巻物の中の真っ赤な顔をした赤鬼社長の顔を見ていたら、カミナリ玉を投げても投げても、投げても投げても、部長陣からは何もかえってこない、その老体に鞭打って投げ続けている様子を見ていたら、血圧が上がって血管が切れそうで真っ赤な顔になっているように見えてきて、今にも倒れてしまうのではないかと心配になってきて、するともうそこには「なんで分かってくれないんだ」「なんで返事をしてこないんだ」という社長の声が聞こえてきて、、、思わず「社長の目」に「ナミダ」を描かずにはいられませんでした。

うまくいかない話し合いや組織にも必ず「ハート」は描ける。

当時のわたしはこのときトップの孤独を(言葉では聞いていたけれど)初めて「体感」しました。そして「ネガティブな発言」をしている人ほど、じつは本気で今を憂いて未来を見ている「ポジティブ」な人なのだと知りました。そして、さらに驚いたのは、だれよりも社員の将来を案じている「親心」という「ハート」の絵が社長の胸に描けてきたのです。わたしはこれまで言葉を言葉通りに受け止めて聞いていたけれど、「本当に伝えたいこと」は違うのかもしれないということを「体感」した瞬間でもありました。

部長のみなさんに「社長の目にナミダが描けてきました」と伝えると、みなさん一瞬「シ~ン」と黙ってしまいました。でもその後、こう吐露してくれたのです。「支社に戻ったらわたしも同じ気持ちだ」。社長の本当の気持ちに触れてから、みなさんの言動のすべてが一気に、他責から自責へと変わっていきました。そこにも「ハート」が描けてきました。ナミダに触れた時、ハートに火がついた。この変容を目の当たりにしたわたしの身体には、なんとも言えない感動が全身に走りました。このために絵筆を動かしたい。

それからも、モヤモヤネガネガした発言を「絵巻物に変換」していくと、それらの多くは単に「誤解だった」「勝手な思い込みだった」「知らないだけだった」「聴けば分かり合えた」ということが、ごまんと描けてくる体験をしました。それは今も続いています。「プレゼンが上手」と言われている人でも、その人が「本当に伝えたい想い」が伝わらず苦しんでいる絵が描けてきたり。会議では聞き流された「小さなつぶやき」でも絵にすると「伝えたい想い」が描けて、その絵をみた他の人たちから「いいね」と言われて救われたり。絵巻物にしてみたら「な~んだ」ということが分かって、みんなが笑顔になっていく。「ハート」が描ける。これまでとは全く違う関係性が生まれていく。そんな変容に立ちあうたびに、わたし自身も救われて、絵筆を動かさずにはいられません。

「描き手」である前に、気持ちを汲み取りたい「聴き手」として、これからも。

「話し手」のスキル向上を求められる世の中ですが、もつれた話し合いの場ほど「聴き手」の存在も必要だと絵筆を通して知りました。話し手は「説明が長い」「分かりにくい」「結論から言え」「要点から言え」と責められやすいですが、「相手が何を言わんとしているか」を汲み取ろうという聞き手は超少数派です。絵筆を持って特に驚いたのは「うちの社長が何を言いたいのか分からないから絵にしてほしい」と結構な頻度で言われること。また、わたしが描き留めた絵を見て「この絵、いいねー」と初めて見た(聞いた)ような反応をされることも多々あります。え?さっき会話に出てましたよね?と思うけれど、聴いているようで他の人の発言を聴いていない人は意外に多い。「自分が次に何を話そうか」という話し手のほうが多い。

かく言うわたしも、絵筆を持たない普段の私は、機関銃のように自分の想いを話してしまう最悪な聞き手です。ただ、そんな私でも、絵筆を持った途端、時間内にリアルタイムに絵に変換しなければいけないという状況に追い込まれ、しゃべる時間を1秒も与えてもらえないおかげで、今まで聞こえていなかったことまで聴こえてくる「耳が開く」という体験をしました。「聞こえてくる」と、遠かった人に近づける。「聞こえてくる」と、もつれていたものがほどけてくる。絵筆はもはや私にとって「耳を開く」ための養成ギブズなのですが、これまで聞こえていなかった世界を知ってしまった今、もう後戻りできない人生です。

世の中の議論の場で聞き手が不足しています。「分かりあいたいのに、うまく分かり合えない」場がある限り、もつれた想いを解きほぐすために、「描き手」である前に気持ちを汲み取りたい「聴き手」として、これからも伴走していきたいとます。